header

アペックス便り11月号

◆前回のつづき  〜社会へ〜

●社会人としてのスタート

東京渋谷に本社を置く[A交易]は、先物取引を主たる業務にする、業界トップを走る若い会社だった。

業界初の上場をスローガンに、取引拡大に精をだすベンチャー精神の溢れる会社だった。ただし急成長の裏にはモーレツな売り上げ至上主義が蔓延り、入社しても長く続く社員は少なかった。実際、同期の新入社員は50名程が入社したが、三か月後に全国の支店に配属されてから一年後には15名ぐらいしか残っていなかった。私自身貿易の商社と思っていたのが、先物取引の会社と知って面食らったが、就職そのものを諦めていた私にとって、業務内容は何でも良かったのが実情であり、就職した会社に適応し自分が存在できることが先決だった。まずは研修で、相当過酷な経験をさせられた。取引所との資格を有する為に外務員試験を受けて合格する事が必須で外務員資格勉強を短期で習得し、資格を得たものが次のステージに移行できた。

会社の部署は取引所との仲買人の場立ちと、外務員資格を有しながら外部一般投資家へ営業を掛けて顧客獲得のための所謂営業職と大きく分かれていた。会社の屋台骨はもちろん売り上げに直結する[営業職]が花形で毎月各支店の営業成績を掲載した業務月報に[優秀社員]を表彰して褒賞インセンティブを与える正に実力実績主義の営業会社だった。

二浪して卒業後も二年のブランクのある私が、一つ、二つどころか、更に年下の同期の新入社員の中で、課せられる全ての領域に渡り凌駕しなければならないと自分に言い聞かせ、同期の誰よりもトップを走らねばと言う自負心が常に自分を追い込んでいた。研修後、私は東京本社に残らず、希望通り大阪支店に配属され、社会人一年生としてのスタートを切った。大阪支店には西日本の統括責任者の常務がいたので、入社に至る[縁]を感じていた。

入社して徐々にいろんな情報が入り、また過酷な営業を強いられる中、同期の連中も先行きに不安と自信喪失との葛藤に悩まされていた。現実問題として、当時の認知度での先物取引は、証券会社の株式や保険会社の保険以上に認知度の低い金融商品なので、営業成績を上げることは、大体新入社員なら一年以内で一件有るか無いかのレベルと先輩社員から吹き込まれていた。しかも、給与は出たが、交通費を含む営業費が一切出ないフルコミッションのような体制で、営業活動をすればするほど給与は営業費で消えていった。そんな中で、半年もすれば同期の仲間も一人、二人と辞めていき、過酷な生き残りレースは厳しくも続いた。

私は、半年間一件の契約も取れず内心焦っていたが、全国に散らばった同期の連中も未だ誰も契約した社員はいなかったので、メンツにかけて我武者羅に営業の日々を過ごしていた。朝は七時出社して、お昼まではアポ取りの電話セールスをし、昼からはアポ取りできたところを営業に行くのだが、大概はアポ取りできても実際に赴くと[約束した覚えはない]とか、外出の為の不在とか、まともに会うことすら中々できないのが実際だった。

普通に考えて行動すると埒が明かないので、私も工夫を重ねる。

電話アポを取れた訪問なら、約束した会話の録音を持参して会えるようにしたり、仕事を終えないと会えない…なんて人には、たとえ夜遅くとも仕事を終えての帰り際に待ち伏せしてやっと話を聞いて貰えたり、先ずは見込み客に会うために最大限の努力を重ねた。一番嫌な営業は飛び込み営業だったが、私はヤルと決めたら一件も飛ばさず、名刺が無くなるまで飛び込み営業をやり続けた。

どんな仕事もやり続けていくうちにコツや知恵が出るものだが、私は何かと目立つ様で、飛び込み営業の時は、その町に何回も行ってするものだから、地域の人ともだんだんと顔なじみになって、挙句に『お兄さんは、一体何の営業で回っているの?』と相手から声掛けされることもしばしばあった。そんな営業を毎日やり続けて、ついに入社八か月後に鶴見区の呉服問屋のO社長から、初めての契約を戴いたのだ。

同期では最初の契約だったので、私のメンツは何とか保たれた格好だ。

今でも最初の契約はハッキリ覚えているが、私が契約の説明を話す前に、O社長が『君に営業成績が付く為には、幾ら用意すれば良いの?』と、何の銘柄も聞かずに『必要な金額を計算してここから取りなさい』と言って、帯封された札束をポンと置いてくれたのだ。後でO社長は『何度も厳しく断わってもめげず10回以上営業に来たら、契約するつもりだった』と私に契約する経緯を言いながら、私の営業努力を労わってくれたのが印象的だった。

こうしてその後も地道な努力が実り、確実に営業成績を挙げながら、私は入社一年目で最多新規獲得の褒賞と預かり高1位の記録を作って異例の係長に抜擢された。二年目は新人の部下を指導しながら自分の営業も継続し、更には自分の顧客管理もするので、睡眠時間を切り詰めるぐらいの忙殺した日々を過ごした。

明け方は、ニューヨーク取引所の外電を分析して東京市場の動向を分析してから出社し、大きなターニングポイントを迎えた顧客には銘柄の売買指示をアドバイスして、午後からは新規顧客開拓の為の営業に出掛け、夕刻からは業務整理と翌日の準備に追われ、退社するのはいつも午後10時を回ってからが殆どだった。

私が今でも[早飯]なのは、この時代の営業癖から来ている。まともに食事する時間がないので、早飯で済ませることが日常になり食事を楽しむ事をすっかり忘れた負の遺産になっている。高度成長期に[モーレツ社員]が日本の企業戦士としてイメージされたが、正に[24時間戦えますか]を地で行く、モーレツ社員だった。しかし、ただ会社の為に働くイメージではなく、顧客に利益を導き、預かり資金を守る為に死に物狂いだった。なぜなら、顧客から預かった投資資金は、日々変動しながら損失リスクとキャピタルゲインの狭間でレバレッジのチャンスを伺いながら、結果が毎日突きつけられる過酷な世界だったからだ。

先物取引のディーリングは株式の信用取引の比ではないレバレッジが掛かる担保取引なので、相場が動くときの利益や損失は一瞬のタイミングと判断ミスで命取りになる。市場の動きは自分の意思で変えることができないので、冷徹なまでの客観的な相場観が要求される。若干20代の私に何百万、何千万の資金を預け、また顧客の期待に応えんとする私も、何億もの取引を日々しながら相場と格闘していたのが今思えば嘘の様で、日々の激務は私を成長させたというより、人生そのものやおカネと言う魔物について深く考えさせられた。フルコミッションに近い給与体系だったので、取引額の大きかった私の給与はうなぎ登りで上がり、百万円以上の月給を貰う月もあった。

高給を貰っても、使う時間も無ければ、おカネに無頓着だった私は、寝ても覚めても顧客を守るために相場分析にどっぷり浸かる毎日で、忙殺に明け暮れていた。

二年目を終えて更に昇級し、一つの課を持たされる課長に抜擢され、部下の管理と課としての営業数字に追われた。自分だけの営業数字の達成と管理なら楽だったが、部下の数字を作り、管理することは大変だった。私の営業ルーティンが普通と思いきや、モーレツ過ぎたのか辞める部下もいて、人を育てる難しさに頭を悩ませた。最低限の努力さえしない営業マンは淘汰されて当然だが、人間の能力には[格差]が有る事にまざまざと感じた次第だ。要は、デキる奴は必ずそれ相応の努力や工夫をしている事実だ。

できない奴は、必ずできない言い訳を並べ、努力も工夫もせずに手抜きをするのだ。

いや、手抜きと言うより何も考えずにただ諦めているのだ。そして、人一倍、不平不満を言いながら責任転嫁に励んでいるのだ。下剋上の激しい実力主義の会社で揉まれたので人間洞察も鍛えられた感が有るが、世の中は[チカラ]を付けなければ淘汰されることを実感したのが、社会人一年生で学んだことだ。逆に力を付ければ世間の信用も増し、更に仕事の重責も増え、評価も伴っていくという事だ。こうして、サラリーマンとしての安定を望むならば、3年目で、既に異例のポジションも得て申し分のない状況だったに違い無かった。しかし、私は会社と顧客の狭間で新たな悩みと苦悩を抱えていた。

所謂、金融業界ではよくあるジレンマに陥っていた。つまり、[おカネ]の契約、解約にまつわる顧客との関係性が、会社との軋轢を生むのだ。顧客の側に立てば、自由に解約に応じることは当然なのに、会社側は解約出金を異常に嫌う。つまり預かり総資産の減少を伴う業績の悪化に繋がるからだ…。

そして、事件は起こった。

私の不在中に、上司の部長が私の顧客にアプローチして解約予定の資金を言葉巧みに再投資させたことが、その顧客からの連絡で分かったのだ。もちろん顧客自身の決断を伴っていたので、その投資に問題はなかったが、慣れぬ私の上司からの勧誘は断りにくいもので、そこに付け込まれた格好だ。悪いことは重なり、翌日からの相場が大きく曲がり、結局大きな損切りになってしまった。普段から根回しや相場観を打ち合わせて投資するのと違って、その顧客の会社に対する不満と憤りを収めるのが大変だった。最終的に私の顔を立てて顧客自身が折れた形で収まったが、この件は私に遺恨を残す結果に発展した。

ゼロサムゲームの相場の世界を取り持つ業界での限界を感じた契機になり、私はこの業界に明るい展望が持てなくなっていた。要は、顧客と会社とウィン.ウィンの関係になれず、会社での出世に全力を尽くせば、必ずそのシワ寄せが顧客に及ぶ現実を垣間見ることが心苦しかった。私に信頼を寄せ、私の成長に寄与して頂いた顧客を踏み台にすることなんて、とてもじゃないができる訳が無い。

随分悩んだが、この業界での自分の展望も望めず、こうして私はこれを契機にこの業界に見切りをつけて、遂に辞表を出す決意をした。

[次回に続く]

※初めての就職で意気揚々と社会に飛び出したが、過酷な営業の世界で様々な苦難と栄光も味わい、短期間で貴重な経験を重ねながら激務を続けること三年目を迎え、遂に大きな転機を迎える…

おしらせと今月の予定

10月初旬、パレスチナ自治区ガザ地区を実効支配とするイスラム組織のハマスが、イスラエルに5000発を超えるミサイルを発射しイスラエル側に侵攻して250人を超える人質を盾にして、ガザ地区ではこれまでにない緊張で張りつめている。復讐報復の連鎖は留まらず、既にイスラエルとパレスチナで5000人以上の死者を出しイスラエル軍がガザ地区への地上戦を実施するとの警告で更なる緊張が高まっている。両民族のいがみ合いの連鎖に、解決の糸口が見いだせない背景に大国の論理が見え隠れする。何の罪も無いガザ地区の人々にこれ以上の犠牲の無いことを祈るばかりだが…世界秩序の波乱をも含む中東の衝突からは今後も目が離せなくなっていきそうだ…。

今月の予定
○10月28日中3全国テスト
○11月23日小学/中学の全国テスト[北巽生]
○11月25日小学/中学の全国テスト[堀江生]
★中3生の進路指導を随時受付けします。不安や迷いが有る場合早めに相談するように…要予約!!

アペックス便り バックナンバー