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アペックス便り10月号

◆前回のつづき  〜大学時代を経て社会へ〜PartB

●大学は卒業したが…

いよいよモラトリアムの猶予が終わる学生から社会人へという時期に、未だ流浪しながら方向性も決まらない何とも不安定な状況のまま、私は大学を卒業せざるを得なかった。それには、年老いてなお借金返済の為に奮闘する父親との関係が一番深く根付いていた。

父は得意先の保証人になって得意先の倒産と同時に背負った借金の為に、鍍金工場を畳むわけにもいかず、当時3Kの極みとも思われたキツイ労働を強いられ、還暦を越えて尚身体に鞭打ちながら働かざるを得なかった。

家業とはいえ、私も殆ど毎日手伝う形で日参せざるを得なかった。余りにキツイ労働の為に職人の定着が図れなかったのだ。ものの数週間、酷い場合は数日で新入りの職人達は逃げ出す有様だ。特に最終工程の加工業の鍍金は、同業他社のダンピング競争の結果、儲けの出ない構造的な不況業種になっていた。利益をあげるには、経費の節減しかなく、要は人件費の節減方法として、手っ取り早く私に手伝わせるのが一番だった。

もちろん、家業故に私自身も内情は良く理解していたので、困って右往左往する父の下に駆け付けて、急場を乗り越えた時の安堵する父親の顔を見たときはホッと安心する代わり、家業の行く末が最大の不安になり父と良く意見の衝突を繰り返していた。

将来性の無い家業の為に、父も私も借金を完済した後、早く家業を畳んで解放されたい…の一心だったのがお互いの本音であったに違いない。

こうして私は、大学卒業後も黙って父親を助ける為に家業に専念せざるを得ない二年間を過ごしていた。卒業して二年ぐらいした頃、いつものように工場でその日の片づけと翌日の段取りの準備をしている時、『もう、明日から工場に来なくて良いから、自分のやりたい道を進んでいけば良いよ…』と、父から唐突に言われた。『えっ?俺無しで工場は困らんの?』と反射的に切り返したが、父は落ち着いた口調で私に『いや、今までのお前の助けもあって、やっと借金完済の目処も立ってきた。あと数年内にこの工場も閉じる方向で考えているんや。二年間もよう手伝ってくれた…。もうお前を拘束しないから自由に泳いでいけば良い…』

毎日のキツイ肉体労働から解放され自由にしろという父の表情を確認したが、私が居なくても確固たる見通しが有るようで、淡々としながらも自信の一端も覗かせていた。更に、数年以内に鍍金工場を畳んだら、工場の後にマンションでも建てて、田舎の済州島に行き来しながら余生を送りたい、と父は具体的に済州島でやりたいことを列挙する有様だった。どうやら、億を超えていた莫大な借金も完済の目処が立ったのは本当のようだった。

ゆっくり余生を生まれ故郷で過ごしたいという願いが、現実味を帯びて生き生きと元気に語る父の口調に、私自身が一番安堵したのを覚えている。晴れて自由の身になった私は、卒業後二年という歳月を経てそれこそ定職も無い裸一貫状態だったが、身体の底から沸き立つような力を感じていた。何よりも、年老いていく父親が、希望を持って余生の楽しみを語りだしたのだから、これほど嬉しいことはなかった。

●人生で初めての就職活動…そして社会へ

父から家業への束縛が解放されたものの、卒業後二年という歳月が私を立ち往生させていた。定期的に会う仲間たちの様子を伺えば、皆社会人としてバリバリ頑張っている感じが伝わり、そんな彼らの活躍ぶりが、なお一層自分を焦らせる要因になっていた。しかし、具体的に為す術も無く、周囲に相談するアテも無く、やはり起業するしか道は無いのか…と暗中模索状態で、沈鬱な日々を過ごしていた。

簡単に起業とはいうものの、何を立ち上げ、世間にどのようなサービスなり付加価値を提供できるのか…自分の趣味の延長の様なものを商売ベースに、果たして起動に乗せられるのか…とあれこれ商売ネタをノートに列挙しては、消し、改善案を添付しては全て没にしたり、アイデアをノートに書き続ける日々繰り返していた。町を散策しては、既存のサービスやシステムを観ながら『俺だったらこうするのに…』と気付いたことは何でもメモしながら、ビジネスのネタを探していた。

しかし、行き詰まりの原因が自分の[社会的無知]と薄々気付きながらも、打開策は無かった。いろんなアルバイト経験は豊富にあっても、マネジメントは愚か、社会全般の仕組みや知識も全く無し、と言って良いほど社会人として未熟であった。

『どのようにすれば、社会に参画し、その一端で学べるのだろうか…』が常に頭から離れず模索は続いた。

そもそも当時、在日社会では[就職できない]という不文律があり、実際私の親戚縁者や周囲を見渡しても就職したものは一人もいなかった。殆どが家業を継いだり、自営する者が大半で、ましてや一流上場会社を訪問して、就職活動する者は皆無だった。そこには、暗黙の了解で、就職差別が歴然とあった時代が色濃く反映されていたのは事実だ。だから、大学卒業しても敢えて就職差別にチャレンジしていく若者がいない、という方が適切かも知れない。

在日社会では、医師か弁護士のような資格を得るのが最高の成功者とされていた時代だった。大学の仲間が就職活動に精を出していた時期に全く就職活動をしなかった私の理由も、潜在的な言い訳として自分を納得させていたのも事実だったし、加えて家業の救済という大義が有ったので大学卒業後の進路は必然の結果と受け止めることができたのだ。だが、その家業から解放された時に、自分の人生航路をどのように舵を切るべきか、成す術も無く途方に暮れ、社会に参画する以前に自身の無知と力の無さに絶望しかけた時に、メラメラと開き直りのパワーが身体の奥底から湧き出てきたのは確かだった。

『よしっ、就職活動なるものを一度やってみよう!』『どうせ社会で学ぶなら、一流の会社に自分を売り込んでみよう!』『未来に、自分の商社を作る為に、学び、スキルを磨こう』と、起業を一端保留にして、一転就職活動にチャレンジすることに大いなる決意をした。

就職して東京本社などに転居した仲間も多かったが、片っ端から電話して、先ずは就職活動のノウハウを教えてもらった。二年越しの就職活動に友人達は驚いていたが、事情を察してすごく協力してくれた。金融、不動産、アパレル、商社と、一流上場会社に就職した仲間が大半だったが、私は商社に的を絞った。

将来世界を股にかけて、駆け巡る商社の社長を描いた大学時代の延長が、今就職活動の火ぶたを落とすことによって具体的に動き出すと思えばワクワクして胸が高鳴るのを抑えるぐらいだった。私の就職活動の戦略は簡単だった。まず最大限自分を売り込むことに徹する代わり、私を得れば後悔させないことをアピールした。そして卒業後二年遅れのハンデは無いか、在日のハンデはないか、そして採用後は本名勤務を前提にすること等、面接を受けるというよりこちらが面談しながら、企業の姿勢やガバナンスを確認していく感じのまさに『デカい態度の偉そうな既卒者』だった。アタマを下げると言うより、私を採れればラッキーですよ、という態度は終始一貫され、不思議と二社、三社と面談に呼ばれ、更に上のクラスの役員との面接をしましょうと電話が鳴る有様だった。

私の中では、就職活動チャレンジして本当に良かった…と思いが有り、内定を貰う前に既に再度お会いして面談しましょう…とこれまで何の因果も無い有名な会社から連絡を戴くだけで十二分に満足だった。『私に期待し、私を必要とする会社なら何処でも良い』と選り好みをする気は全くなく、最後の一点は私個人そのものに評価して貰えるところにポイントを置いていた。

三社が私の意中に入り面接を重ねたが、そのうちの上場会社の二社は、共に『在日採用の前例が無いので、先ずは子会社での採用後、本社に呼び戻す形で君を迎えたい』という内容だった。私が首をタテに振れば採用決定だったが、意に介さず私は『前例を破ってこそ、私への評価と採用意欲が伝わります。

ならば私は命にかけて貴社の為に尽くすことが出来ます。だから、私を子会社経由にしないで下さい。無理なら無理とハッキリ仰って下さい…』と遠慮なく自分の意思をぶつけた。人事担当者の表情とリアクションは今でも覚えている。

『あー、会社の都合で君みたいな採用を逃しそうやな…』とポツリと呟いた担当者の一言が印象的で、不思議とその後の会社の発展振りを今でも株価などでチェックするぐらいだ。結局人事担当者だけではどうすることも出来なかったようで、妥協しなかった私はその二社からは、内定を貰えなかった。残る一社は最終面接まで進んでいたので、常務との面接を残すのみだった。非上場のその会社は、業界ではトップを走る勢いのある会社で、業務内容は良く知らなかったが、当時の就職活動周辺の情報では、よく目に留まり頻繁に広告も出していたので、簡単な気持ちで履歴書を送付してからの、面談を重ねていた会社だった。人事担当者とも何度も会ううちに懇意になり、私の条件は全て受け入れて是非入社して欲しいと内定を貰っていた状態だったので、最終確認の役員面接を残していたのだ。

重役室に通され、常務と対峙しながらいくつかの質問を受けていたが、覚えているのは私の質問に答える常務の表情だった。私は『入社したら出世したいのですが、在日の私でも社長になるチャンスは有りますか?』と常務に投げかけると、常務が『もちろん有るよ…ただし私の後に社長になってくださいよ…』とニヤリと微笑んでくれていた。そして私は数か月の就職活動の結果、何かの縁を貰ってこの[A交易]という会社に就職することになった。

就職でも、結婚でもなんでも私は【縁】と思っている。何よりも得たのは、在日でのタブーとされていた就職活動に私自身で風穴を空けたことだ。

親戚縁者はビックリしていたが、私の『やってみなくちゃ分からんし始まらん』精神は、自信となって私のその後に大きな影響を与えていった。

新入社員として三月末には東京で始まる三か月の研修の為に転居しなければならない。社会に参画できる喜びを胸に秘めて、社会人として活躍して立派に出世していくぞとワクワクしながら、春の到来とともに新天地の東京に転居して、新入社員の研修のスタートを迎えていた。

[次回に続く]

※大学卒業後も借金返済に追われる父を助ける為に、家業に二年間専念したが、ようやく謝金返済のメドが立って、自由の身となり、卒業後二年の既卒生として、初めて就職活動をする。縁あって入社した会社は若いベンチャー企業で商品先物取引の金融関係の会社だった。新人研修のため、東京での3か月の新生活を前に、社会参画出来る喜びに胸を膨らませるが、果たしてこの先はどう展開していくのか…

おしらせと今月の予定

10月を迎え大学受験と中学受験生にとってはカウンタダウン100日になります。本番まで後100日を数える中で、やらねばならぬ事とやっておきたい事を明確に分けて実践して欲しいです。やっておきたい事まで充実させると心にゆとりが生まれます。入試は減点法ではなく加点法で競われるのです。志望校の過去問題を研究し加点出来るように確実にやっておきたい事を習得して、日々研鑽して欲しいと願います!

今月の予定
○7日…オプション講座開始
※アドバンス&基礎充実
※中3受講必要生徒による
○28日…全国テスト(中3受験生)
※その他の学年は11月実施

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