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アペックス便り3月号

◆前回のつづき  〜大学受験と2度の挫折 〜

モハメッド・アリのキンシャサの奇跡の後、梁先生との死別を何とか乗り越えようと軸足を再度[医学部受験]に向け歩み始めた私は、空白状態の3か月がとんでもない穴を空けていることに気付いた。大体、高校2年生の秋口といえば、大学受験準備の本格的スタートと言っても過言ではなく、ましてや医学部を受験するなら高校在学中に空白時間を作るなんて言語道断のあり得ないことだ。更に大切なモチベーションを向上させ、学習の質と量のアップを自発的に取り込むべき時期ともいえるのに、当時の私の精神は彷徨うばかりで、半ば腐っていたのだ。

人生に意義を感じられず、不条理や儚さに無常観を重ねて、人生から逃避していたと言ってもよかった。気が付けば、成績はみるみる低迷し始め、どの教科も後手を踏み始めていたのに焦りを感じていた。気持ちばかり焦り始めても、肝心の学習サイクルを完全に狂わせた以上、空回りばかりして成績は最悪の状態が続いた。簡単に言えば、目標もなく、地に足が付かないフワフワと浮いた状態で漂流していた感じだ。そんな調子で年が明け成績も低迷したまま、いよいよ高校3年生を迎えようとしていた。高校3年のクラスは理系クラスの全員男子で構成されていた。公立の共学校で、最後の一年だけ男子校のような学校生活を経験したが、気骨のある男子ばかりで、モチベーションも高く学習環境は良かったと思う。一年生で切磋琢磨したN 君とも同じクラスに復帰したし、高校二年から親交を深めたH 君ともそのまま同じクラスで進級した。

何とか高校二年時の空白部分の遅れを取り戻しながら、徐々に成績は持ち直しつつあった。高校在学中は本当に単眼的になり易く、私も主観的かつ単眼思考に陥り、全般的な学習計画がズタズタになっていた。それに気付いた時は、高校三年の夏も過ぎて受験の追い込み充実期にさしかかっていた。受験計画と受験勉強ほど[客観視]が要求されるものは無い。当時の私は、ひたすら好きな得意科目ばかりに時間とエネルギーを注ぎ込み、主観的にしかも単眼的にしか思考できなかったのか、受験科目全体のバランスの悪さが際立っていた。特に全教科の完成度が要求される医学部受験に一科目でも不得手な科目はタブーなのに、私には出遅れて苦手な修正不可能の受験科目が二科目もあったのだ。本来なら、苦手教科の克服に全力を挙げるべきなのに、嫌いな科目でシンドイ思いをするぐらいなら得意科目で更に完成度を高める方が得策だ…とする誤った主観的判断や、情報収集もせずに単眼的に決めつけた志望校選定が、後々まで自分の人生に影響を与えたことに気付くのは、現実には数年も経ってからだった。そして、一番いけなかったのは、医学部受験に「浪人」は付き物という既成概念のような[言い訳]が、現実に自分の脇の甘さを作り出した諸悪の根源と言ってもよいだろう。地方の国立一期校医学部と国立二期校医学部の2校を受験して、私はあっけなく不合格の宣告をされ、そのまま [浪人]生活を余儀なくされた。予想通りの不合格ゆえ、落ちて悔し涙も後悔もなく、淡々と気持ちは既に翌年に向けていた。悔しさが無かった事実は、死ぬほどの努力さえしなかった証ともいえるだろう。

私が今でも現場で受験指導する際に、一番重視するのが自己管理であるのは自分の失敗の反省に他ならない。

人間はややもすれば、主観的に独善的に判断し行動しがちだ。こと受験においては、根性論や努力論も大切かも知れないが、何よりも客観的なデータを重視し、更に緻密な分析力を要することを痛感したのだ。だから、それを今日まで現場指導で活かせているのがせめてもの救いで、私のような失敗は我が塾生には決して経験して欲しくないと日々願っている。浪人生活で得たものも多少は有ったかも知れないが、若い時期の貴重な時間を只大学合格の為に費やすのは、青春期の時間が勿体ない。現役で合格する事を先ずは基本に全てを思考し行動することだ。

●家業の危機

父の経営する町工場は、いざなぎ景気の波にも乗り順風満帆と思えていたが、オイルショック以降の狂乱物価の不景気のあおりを受け、弱小零細の鉄鋼関連企業は淘汰されつつあった。機械化が遅れた父は、生産性競争の劣勢を強いられ価格勝負が出来ない事態に陥り、精密螺子の生産を縮小させながら最終加工の鍍金業に活路を見出そうとしていた。

そしてついに螺子製造を諦め、鍍金加工に本格的に乗り出していった。公害対策の規制強化に伴う設備投資の負担は相当なリスクだったが、新たな借入金を基に新しく工場を建築し、新業態に転換した。持ち前の営業力で新業態に転換後の見通しも、徐々に見え始めたかと思った矢先にとんでもない事態に巻き込まれてしまった。商売にリスクは付き物だが、父の取引先の主力で一番に贔屓を頂いていた鉄鋼商社の突然の破綻のあおりを喰らってしまったのだ。その商社への銀行融資の保証人の裏判を押したが故に、連帯保証の債務を被ったのだ。父の被害額は億を超えていたらしく、当時の貨幣価値として、我が家は再起不能の家庭存亡の危機に直面していた。

子供ながら我が家の行く末を不安に過ごす日々の中、今でもハッキリ覚えているのは当時の母の父への叱咤激励の仕方だ。やつれてフラフラになりながら重い足取りで帰宅した父に、淡々と母は言うのだった。『嫁に出していない娘もまだ一人いるし、息子たちは大学にも行けてないし、貴方はまだまだ働かないとアカンってことじゃない?もともと裸一貫で何も無かったところから頑張ってきたし、お金を無くしただけで、まだまだ貴方は健康じゃないの…。I商事のI社長は夜逃げして、一家も離散したみたいだけど、これから他人の借金背負っても、貴方には未だ工場と家族が有るのよ。借金が出来ただけで、何も怖いこと無いわ。さぁ、元気出してご飯食べて、又明日から頑張って働こう!』と…。

全く父に同調せずに、普段通りに振る舞う母に、きっと父も勇気を貰ったはずだ。父母の背中を見ながら育ったことで、私への無形の財産はどこかで活かされているだろうと、今日でも感じることは多々あるが、それはバイタリティーや生きるチカラなのかも知れない。そして、他者責任に縋る心を排斥し、自己責任で完結することを是とする考え方に大きく委ねられているように感じる。失敗したとき、自己の判断を悔い責めるのは辛い事もあろうが、再び前を向いて一歩踏み出す為には、他者に責任をなすりつけ自己逃避するよりは余程勇気ある生産的な生き方に繋がると、父母から学んだと思う。結局、その後の父は連帯保証のハンコ一つから背負った借金返済の為だけに働いたようなもので、完済するまでその後15年の歳月を掛けてしゃにむに働いたのだった。父が借金を完済して呟いた言葉が印象的だった。『何とか目の黒いうちに返済出来て良かった…。人間お金持って死ぬこと出来んから、お金に振り回されたらアカン…。若い頃に稼いだお金も年老いて借金返して、結局プラスマイナスゼロってことやな…。人間、いつか死ぬんや。家族が皆元気で仲良く、健康なんが一番や。お前も人に頼らんでもエエようにしっかり将来考えておけよ。お金は活き金を使って、絶対に死に金は使ったらアカン…。』

家業の運命に操られるように、私の運命も一つ一つ紡ぐ糸が変わっていったのは言うまでもない。家庭に経済的負担を極力掛けまいとする家族の絆は、無言の合言葉の様に生活の節々で唱えられ、各々が努力し実践していった。そして、私は予備校選択の浪人を言い出せなくて、自ら自宅浪人を選択し一年だけ浪人させて欲しい…と父母を説得して一人ぼっちの浪人生活に踏み切った。今思えば宅浪の選択はリスキーで考え難いが、当時の私には選択肢が無い状況だったし、寧ろトコトン自分と向き合い、死ぬほどの努力をやってみたかった。長らく励んだ空手道の武道精神を如何なく発揮し、山籠もりをするような覚悟で一年を臨めば、何とかなるだろう安易に考えていた。結局受験勉強は人から教わるものではなく、自ら得る知識と解答能力を磨く鍛錬じゃあないか…なんてタカをくくって、現役時代にやり切れなかった課題突破さえ出来れば活路を見出せると錯覚していた。

高校を卒業した当初は、現役合格を果たした友達や、予備校に籍を置いて浪人を決めた友達の情報を聞くたびに、羨ましく辛くもなることも有ったが、一人で部屋に籠って自分を見つめ直し、内省しながらいろいろと思考する生活も、まんざらでは無かった。そして、不合格を突き付けられた自分に足らなかった物は一体何か?と自問する日が続いた。更に、もしかすると医学部への志望動機を煮詰め切っていないのではないかと懐疑的に自分を虐めてみた。

当時の在日社会での不文律に、在日同胞は一般企業への就職は不可能で、自立できる職業は[医者か弁護士]か、ダメなら自営するしかない…という事が有ったのが一因として考えられる。単にマイノリティーとして堂々と日本社会で生きる為の生業だけの手段として、自分は志願していたのではないか?と、自問し始めたのだ。高尚な気持ちで人の役に立ちたい…と自分では確信していたのに、目標設定そのものが懐疑的になれば、スッキリと晴らさないと気が済まない。性急な性分の私は、医学部への志願動機をとことん突き詰めようと早速に行動にでた。自宅で悶々と悩んでも埒が明かないと思い、時空間を変えてみようと自転車に乗ってできる限り遠くまで行って、答えが出るまで煮詰めようという考えに及んだ。しかも自分の肉体の限界も試せるので一石二鳥だ。そこでまず、昔から海が大好きで太平洋の遥か彼方を見渡しながら自分の[夢大陸]を探すのに思案する適所…と考え、それに相応しい場所は、やはり唯一ここしかなかった。それは潮岬だ。

本州最南端の潮岬は、本州から一番の先端で太平洋を望める場所なのだ。「よし、ここまで自力で行って、とことん考えよう!」と思った私は、リュックに軽く荷物をまとめ、母に二日ほど旅に出る、と言い残して明け方の真っ暗なうちにサイクリング車のペダルをこぎ始めた。実に大阪から潮岬までは往復500キロの行程になる。二日もあれば往復できるだろうとの計算で、とにかくひたすら南へ向かってペダルを回していた。「目指すは最南端だ」と言い聞かせ、軽快にこいでいた。ウォークマンも無い時代なのに、普段聴き馴れた好みの楽曲のリズムが不思議と耳にこだまして、調子は上々だ。和歌山の標識が見えてきた頃に徐々に夜が明けてきた。「へぇー、もう和歌山か…チョロいな!」と、その後も快調にとばしていた。ところが紀の川を越えて、有田の標識を見ながら海南にさしかかったところで、最初の難関に出くわしてしまった。平坦路では快調そのもののペダルのリズムが、山道の登りになると、まるで止まったかの様に重くて回せないのだ。きつい勾配が延々と続く。立ちながら全体重を乗せてこぐのも、フラフラとスピードがおぼつか無くペースダウンしてしまう。私の愛車は15段変速のサイクリング車で、一番軽いギアを選択しても、ペダルを回す私は必死の鬼の形相だ。

延々と続く上り坂に足は痙攣し、遂に私は悲鳴を上げてそのままぶっ倒れてしまった。ペダルを直接足の甲に縛るレーサー仕様に改造したことが仇となり、バランスを崩してペダルから足を離せず、そのまま地面に叩き付けられたのだ。

[次回に続く]

※高校卒業間際の家業の危機から自分の夢がぐらつく中で、敢え無く不合格を突き付けられた現実に未来への暗雲が立ち込み始める…。大学受験を失敗した自身の決意を再確認すべく、旅に出るが…余りに安直で無謀な旅はハプニングだらけ…。、次々と忘れがたい体験を得て、何とか自分の新航路を見出した旅の後、自宅浪人へと突き進むが…。

おしらせと今月の予定

※3月より新年度授業が開講します。新学年に備えた準備を徹底させて好スタートしましょう!

今月の予定
○1日…新年度開講!
○10日公立高校入試
○20日公立高校合格発表
◎21日合格祝賀会
●3/25〜4/7日
春季講座スタート
◆紹介キャンペーン実施中!!
お友達も紹介者も特典がいっぱい!!

【合格速報】合格おめでとう!!
◆S・S…常翔学園高[薬/医]
◆T・S…浪速高[特進]
◆T・N…大阪学芸高[特進]
◆W・R…大阪産業大附高
◆K・N…大阪学芸高[特進]
◆K・O…大阪学院大高
◆U・M…信愛学院高
◆M・H…大阪成蹊女子高
◆Y・A…追手門大手前高
◆T・K…明星高
◆F・H…東大阪敬愛高
◆M・N…天王寺学館高
◆S・J…広島/尾道高[難関]

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