当時の公立中学は道徳教育も盛んで、特に週に一度は[にんげん]というテキストで、同和差別の授業もあったぐらいだった。本名で通学する私への配慮なのかどうかは分からないが、学校の先生は二手に分かれるぐらい、私には両極端な扱いが垣間見られた。
越境入学者が多かった程の人気の進学校で、当時はトップ高に毎年50人以上の合格者を出す中学校であった。教育熱心な家庭が多い為か雰囲気は少し異様で、大半はガリ勉か残りは落ちこぼれか、あとは僅かなヤンチャな不良予備軍だった。私はというと、入学早々から勉強に挫折したので、学力競争は戦線離脱の状況でもっぱらヤンチャグループのリーダー格を装い、学校生活を謳歌していた。しかし、あんな大袈裟な希望と覚悟を持って転校したのに、小学時代の恩師や両親の期待にも応えられない自分に、内心ではイライラと忸怩たる思いで一杯だった。
『俺だってやれば出来るさ…』と嘯きながらも全く勉強をしないので、相変わらず成績は低迷し、仲間とヤンチャばかりしていた。ところが、あるひょんなことから、転機が中二の秋に突然訪れた。
後の恩師になる先生との出会いで、私は背中から押された様に、突如やる気が湧いてきたのだ。その先生はとても厳しく、生徒からは恐れられた先生だった。皆は煙たがったが、なぜか先生は私に関心を寄せ、珍しく授業中に私を良く褒めてくれた。私も素直に、心を開いた贔屓の先生だった。理科の先生で、ある放課後、実験後の片づけを手伝わされた二人だけの時に、私は先生から、何気なく将来の夢や進路を尋ねられた。間髪入れず素直に、『将来は医者になりたい』と、アッサリ答えた自分が恥ずかしくて、直ぐに『でも、勉強できんから、無理やと思う…』と打ち消したら、『いや、お前だったら良い医者になると思うよ。それならば、そろそろ本気で勉強しないと、高校受験に間に合わないよ…、今からでも遅くないから、頑張ってみろ!』と、否定どころか、更に『勉強で分からない所があったら、放課後いつでも教えてあげるから、まず学年100番以内を目標に頑張れ!』と、私の夢を真剣に受け止め、後押ししてくれたのだ。
私は嬉しくて、『絶対に100番、いや50番以内になってみせます!だから見とってください!』と、勢いに任せ、先生に言い放っていた。約束した以上、もう後には引き下がれない…。『よし、やってやろう』と私は先生から言い知れぬ勇気を貰って、全身から溢れるやる気に燃えて、その日から生まれ変わったように勉強に打ち込んだ。その日以来、周囲のヤンチャ仲間にはガリ勉になる宣言をして、遊びや誘いも断り、勉強に明け暮れる毎日が始まった。
『どーせ、最初だけやわ…』と冷やかす落ちこぼれ仲間や、ヤンチャ仲間の眼差しも背中に感じていたが、まさに最初の三日が勝負だった。やがて三週間、そして三か月と時間が経つにつれ、自分の立ち位置は大きく変化してきた。当時の中学校では学年100番以内は公表していたが、三学期の学年末テストで私はいきなり50番以内になって、恩師の先生との約束を果たすことが出来たのだ。そんな快挙もあって、嘲笑していた仲間も、テストが近づくと、まるで自分のことのように興奮しながら、勉強する私を応援するようになってきた。
私の学習法は至って簡単だ。まず教科書の隅々の挿絵に至るところも全てを、とことん分かるまで精読することから始まり、さらに理解できているかどうかの確認を、徹底的に問題集でチェックする方法だ。それを絶対に自力で正答するまでは、最低三回は誤答チェックを消すことにして、全問題を自力で解ききるまで反復し、ひたすら繰り返すだけだ。簡単に言えば、問題用紙に絶対に嘘はつかないと、徹底して臨んだ。テストに関しても、解答欄に嘘はつかないとばかり、分からない問題は空欄でも、解ける問題は絶対に取りこぼし無く記入して、得点を加算していく方法だ。最初は空欄も多いテスト用紙が、勉強の量と分かる量が増えてくると、面白いように空欄のスペースが減っていくので、ますます勉強が楽しくなっていった。
小学校から読書三昧で過ごしたことも寄与したのか、教科書を精読しながらの理解のスピードも速かったので、勉強の量だけでなく質も上がると、いろんな工夫も加え、更に自分なりに分析し、検証する楽しさも覚えた。分かりやすく言えば、同じビデオ映画を擦り切れるまで観れば、見落としていた部分も良く見え、更には作品内容の製作意図まで気付くといった感じだ。今、我が教室で子供たちに指導する方法は、自分の原体験によるところも多いが、勿論一番大切なのは目標とモチベーションとの理由付けであることは言うまでもない。
私の場合、恩師の励ましで勉強する目標と動機を得て、さらに医者になる為の絶対条件で勉強は絶対に必要だと、正面から自身と向き合うことができたので、全神経を勉強に張り巡らし集中しただけだ。本気で勉強と向き合い、自信を深め、更に意欲と希望が湧くに従って、学習する善の循環が動き始めたのだ。その意味で、思春期の大人の子供への一言は本当に重要だと思う。勇気を与えるか、絶望させるかは、ほんの紙一重の違いと言えよう。
大人の一言で、人生が変わるのだ…。
そんな勢いで、受験学年の三年生を迎える時は、私の勉強意欲は増すばかりで、一学期のテストは、学年順位も遂に一桁まで伸ばすことができた。面白かったのが、周囲の目と態度が激変したことだ。これまでは親から私と遊ぶことさえ禁止されていた者や、上位安定していたガリ勉くんたちも、不思議と私に近寄って来るようになってきた。私自身は、これでやっと両親に面目が立つ、と安堵したのだが、第二の転機がよもや高校進学の間際に訪れようとは、その時は未だ気付いていなかった。当時の高校受験は公立高校全盛で、しかも各学区に分かれた高校の序列が明確であった時代だった。
大阪の名門トップ公立校は各学区でゆるぎない地位を確立していた。しかし、私の受験期はちょうど学区編成の最中で、居住所からの出願は、水面下で志願者調整が割り当てられていたのが実際だ。僅かな調整学校という措置があって、私の居住地区は正にその調整区域であり、トップ高への割り当て人数が制限されていた。しかし、毎年安定的にトップ高へ合格者を送り出していたので、私も何ら疑うことなくトップ高への受験を目指し、受験勉強に邁進していた。。そんな中、冬休みを間近に事件は起こった。いつものように帰宅して一段落したところ、母親に唐突に志望校の変更を説得されたのだ。
絶対に私の合格を信じて応援してきた母に異変を問い正すと、どうやら学校から呼び出しを受け、担任から志望校変更を受託するように説得させられ約束してきたようだ。私が許せなかったのが、私同伴だと話が纏まらないことを見越して、陰で親だけを呼び出し、私抜きで進路を決めたことだ。
当時の学校の先生の権限は絶大で、ましてや外から異端視されないように努めてきた私の母親が、学校の先生に異議を申し立てる訳がない。そんな理不尽な事後報告を飲まざるを得ない状況に、翌日私は学校で荒れ狂った。まず、担任に陰で志望変更させた汚いやり方を、授業中に声を荒げて徹底して糾弾した。『先生に、俺の夢や人生計画を断念させる権利があるのか!』と食って掛かった。担任は『お前の内申点では絶対に無理だ』と反論し、更に『お前の不合格は見てられないからだ』と諭す言葉にブチ切れた。これまでの素行や授業態度も実際に酷かった私の急所をついて、納得させようとする担任に、『もし不合格になっても、俺の人生やからチャレンジさせろ。戦わずして負けるのは嫌や!』と私も引き下がらない。『もう親の了解も得たから決まったんや。だから諦めろ…。』保身が見え見えの大人の都合に納得できる訳がなく、延々と食い下がる私は、挙句に授業妨害だと言われたので、『こんなアホな授業なんて受けてられるか!』と、自ら教室から飛び出した。
クラスメートの大半は私の応援をしていたが、進路決定の大切な時期故に、ガリ勉君たちの大半はそのまま教室に残った。しかし、私に賛同して飛び出してきたのが、進路なんて無関係の落ちこぼれのヤンチャ仲間の数人だった。成績は悪くても義理人情に厚く、仲間想いの彼らが本当に嬉しかった。徹底抗戦の覚悟で、担任から折れてきて話し合うまで戦うつもりでいたら、その日は無視されたまま、結果全ての授業をボイコットすることになってしまった。
結局、体制に従わない異端児のレッテルを貼るだけで処理された私は、肩透かしを食らった格好になってしまった。流石にボイコットに付き合ってくれた仲間に、更にこのまま徹底抗戦に付き合わせるのは申し訳ないので、翌日から私は学校をサボって行かなくなってしまった。
人生を回想するときに、『〜したら、〜すれば』のタラレバは付き物だが、それは全く無意味だ。過ぎ去った時間は戻らないからだ。実際、私の高校受験は失敗だった。自分が設定した目標や志望する動機そのものを放棄させられたからだ。他者に人生を翻弄させられることがどれだけ空しいか15歳で味わった。もし、受験していたら、の想像は全く無意味だ。合格していたか、不合格かも、架空の設定では現実では無いので意味を成さない。チャレンジして、実際に経験して初めて人生の駒が進むことを痛感したので、今思えば逆に人生の指針ができたのかも知れない。以降、私は自分の信じる道を自分の判断で進むこだわりが増したのは間違いない。また、リスクを取らなければ大きな果実も得られないことも学んだ。
今でも教え子たちへの基本姿勢は変わらない。『自分の人生だから、後悔の無い受験をしなさい』や『進路で人生を変えるぐらいの受験をしなさい』は、今でも我が教室の合言葉になっている。
だから、我が教室では合格するか否かの[占い]は一切しないし、ましてや進学先を決める為の助言は皆無だ。『自分の行きたい志望校を合格して自分の母校にする』のが、一番理想で自然だからだ。もちろん受験だから、競争原理と過酷な現実と向き合わねばならない。動機が善で理想に燃える人生に不可欠な行きたい志望校が見つかれば、チャレンジしなければ結果も得られないのだ。いや、不可欠な志望校だからこそ力を付けて堂々と受験すれば良いのだ。だから、我が教室の進路指導はシンプルだ。受験したい志望校のレベルを凌駕するチカラをつけて受験しろ。たったそれだけだ。だから、教え子の受験日の前日まで、とことん付き合って指導のサポートをする。実際、当事者以外で出来ることはそれしか無いのも事実だ。
その事件以降、私は学校に行かずそのまま冬休みを迎えてしまった。母は、自責の念からか進路について何も触れなかったが、突然投げやりに不貞腐れた私を、相当心配したに違いない。
正月も明けて、いよいよ三学期が始まるかという直前に、母は私に突然尋ねてきた。『お前に会わせたい人がいるの。一度、会ってみる?』と唐突に言われたことより、自分の事で心配させている母への後ろめたさが有ったので『別に…会ってもええけど…』と返事したら、『お母さんの大切な親戚だし、すごく忙しい偉い先生だから素直な気持ちでお話するんよ』と窘められた。そして『もし気に入れば、家庭教師を頼んであげる』と付け加えた。親戚と言われ、しかも先生なんて想像もしていなかったので、不貞腐れたまま、面談する日を迎えてしまった。
その出逢いこそ、私を根底から引っ繰り返す出逢いになるとは、夢にも思わなかった。
その人は梁先生といって、大阪大学で助手をしている先生だった。在日では初めて若くして助手になったらしく、在日でなければとっくに助教授になれる若手研究者のホープだったらしい。同胞組織の科学者協会のリーダーでもあり、世界中の大学に論文発表で飛び回っていたバイタリティー溢れる凄い先生だった。数時間も先生の話に聞き入り、いろんな世界中のスケールのデカい話に、吸い込まれるように楽しい時間を過ごしながら、また私の中から沸々と言い知れぬエネルギーが湧いてきた。そして梁先生に、受験したい志望校を受けられない進路の理不尽さを、恐る恐る相談したら、『高校なんかあっと言う間だから、そこに固執せずに勉強の中身を充実させて、大学で行きたい学校に行けば良いじゃない?悩む時間が勿体ないよ。』加えて『お母さんからチラッと聞いたけど、将来は医者になりたいんだってね…。確か、今年の阪大医学部の合格者に、君の受ける予定の学校出身者もいたから、どこでもチカラさえ付ければ道は開けるから、そこで頑張っていけば良いよ!』と、私の悩みを一蹴して言い放ってくれたのだ。
その一言で、それまで意識しなかった変更予定の学校に、急に親近感が湧いてきて、これまでのモヤモヤが一気に晴れて、気が付けば又心がスッキリと前向きな気持ちになっていた。帰り際に私は、梁先生と別れるのが寂しくなったのか、突然先生に懇願していた。『先生、僕絶対に医学部に合格したいから、週に一度でも、いや月に一度でもいいから、僕の家庭教師になっていろいろ教えて欲しい!お願いします!!』と…。大声を張り上げて頭を下げていたら、『よしっ、わかった。不定期になるかもしれないが、君の期待に応えられるように応援しよう。だから良い医者になれよ!』と快諾してくれた。
後日談だが、学校も行かなくなった息子を心配して、遠縁の梁先生に大学受験の力添えを依頼しての面談は、私のヤル気と多忙な先生とのタイミング次第の前提でもあったので、成立しなければ途方に暮れたかもしれない、と母は笑っていたが、私の豹変ぶりと先生の快諾に、母親が一番喜び、嬉しかったようだ。 こうして私は、恩師の梁先生との出会いを契機に、半月程不登校になっていた学校に、又三学期から行くようにした。月に数度、我が家に来る梁先生との学習が何より楽しくて、私はまた勉強に没頭する毎日が始まった。何が楽しいかって、物事の考え方や、探求する過程の全てが興味深く、理論を裏付けに今学習している事を数次元も高所から落とし込む先生の話に夢中になり、納得し釘付けになった。 毎回先生をギャフンと言わせようと、下調べして自分なりに高度な質問をしているつもりが、ことごとくアッサリと何時でも明快に説明してくれる梁先生の博識に驚嘆した。先生の研究生活の話や、超人離れした驚きの世界観にすっかりと埋没して、会う度に先生に憧れる日々であった。実際に家に来て頂けても、学習する私の横で先生は専ら自分の研究に勤しんでいるのが大半で、手取り足取り教わることは無かったが、共有する空気は、何事にも代えられないぐらい崇高で、私の珠玉の時間だった。
[次号につづく]
※中学時代に出逢った恩師二人のお陰で、座礁しかけた私の航海も何とか進めることができた。高校入学前に『少年よ、大志を抱け』とばかり希望を与えた大人の励ましは、回想すれば、その後に与えた影響は大きい。大人は子供にとって勇気の指針であり夢を具現化する存在であって欲しい、とつくづく思う…。
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