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アペックス便り10月号

◆前回のつづき  〜少年期の出逢い〜

私は小学校に上がる前に、大阪市内でも有数の文教住宅地に引っ越すことになり、そこを第二の故郷として青春期を育んだ。
地域では在日が殆ど存在せず、宛先無しの郵便物が、宛名だけで届いたこともあったぐらい、我が家は珍しい存在であった。
大半の在日が、生野区や東成区などのコミュニティに集中して暮らす中、周囲に全く在日の居ない環境は、私には新鮮だった。

一方、小学校は電車で通学しながら、韓国系の一貫校に通うことになった。
小学校から高校まで同胞と在籍する結束は尋常ではなかったぐらいで、学年を跨いでどの学級にも兄弟姉妹が在籍する混沌ぶりだった。
親も生きるのに精一杯追われていた為か子供の教育に目がいかず、全て学校任せの雰囲気があり、当の子供たちは毎日を自由気ままに謳歌し、屈託がなく天真爛漫だった。
ただし、それは学校の中だけであり、一歩学校外に踏み出せば、子供なりに、差別や虐めから我が身を守るのに全神経を張り巡らしていた。

ゴッドファーザーのマーロンブランド演じる若き日のイタリア移民のリーダーのコルレオーネの世界や、ワンスアポンアタイムインアメリカでのイタリア移民のニューョークでの成り上がりを観た時に、なぜか懐かしく共鳴する感覚が少年期のこの時期と重なるぐらい同胞の結束は固く、皆貧しい中でも逞しく仲間を支えあって日々を過ごした記憶が蘇る。

恐らく10年程は生活レベルが遅れていたと子供心に感じたぐらいに、在日同胞の仲間は貧しかった。
私は市内有数の文教地区から通っていただけに、毎日がタイムマシンで通学していたと錯覚する程、私の仲間は貧しかった。
兄弟姉妹が4人の私は、当時のクラスの中では最低人数で、同級生のほとんどが平均8人以上の兄弟姉妹に揉まれていた。
服はお下がりが当たり前、靴下を履く子は殆どいないし、弁当はおかずが有っても1品だけ、お小遣いを貰った経験のある子は皆無…。といった具合である。
今となっては時効だが、貧しさ故に仲間ととんでもない(悪さ)に走った悲しい記憶がある。

ある時仲間との付き合いで、学校帰りに電車を乗り越して、ターミナルのデパートまで足を延ばして、どうしても欲しかった文具を皆で万引きするという事件を起こしてしまったのだ。
制服のままの犯行もあって、すぐに見つかり学校に通報され、担任先生が我々を引き取りに来ることになった。
しばらくして、血相を変えて飛んできた担任先生は、我々の顔を見るなり号泣しながらボコボコに我々を際限なく殴り続けた。
親にもこれほど殴られたことは無かったが、あまりに担任先生の悲しい嗚咽が響くものだから、最後は皆が号泣し、二度と担任先生を悲しくさせないと誓った記憶がある。
その際に担任先生が放った一言は、今でも楔として心に残っている。
『お前らのせいで、まじめに生きている韓国人全部が悪く思われるんや。汗水流して働く親に報告できんから、ワシがこの手で正念入れなおす。』と…。
鬼の形相で殴り続ける先生を周囲が制止する形で、結局穏便に事なきを得たのだが、まさに貧すれば鈍すの如く、貧しさゆえに出来心に流された瞬間を、懸命に我々を守ってくれた大人がいたことに泣けてきた。
直接の万引きに手は出さなかったまでも、共に行動し傍観した私にも容赦はなかった。
両親が知ればどれだけ悲しむだろう…。

仲間全員があの事件を契機に、我々は外からどのように見られているのか、を常に強く意識するようになった。
実際、どっぷりと日本社会の文教地区に引っ越してから、我が両親の意識や近所への気配りや行動も、尋常ではなかった。
家族旅行にでも行けば、向こう三軒両隣のレベルを超えて、両親は町内会の皆に旅先のお土産を配るという気前の良さだったし、母はゴミ出しレベルの外出でも常に小奇麗に装い、よく友達から『きれいなお母さんやな』と言われるのは子供心ながら気持ちよかった。
両親が事あるごとに口にしたのは、『韓国人だから、いつもきちんとしなければダメなのよ。下に見られたら終わりだから、常に人の倍は努力して、やっと普通。何でも頑張って一番にならんとアカンのよ』と、常に対外的な視線を意識させられ、敏感になっていった。
運動神経が鈍ければ駄目、アタマが悪ければもっと駄目、喧嘩が弱ければ死も同然とばかり、子供達には常に強さと優秀さを求め、また出来て当然だと母は子供達を信じてくれた。
子供の親を喜ばせたいという本能を上手く活かした教育法で、兄弟姉妹も競って頑張った成果を親に伝え、認めて貰うのに必死であった。
自然とその様な環境は、根性と負けん気だけは育つものである。
また、通っていた学校の教育水準が低かったこともあり、クラスでは勉強もいつも一番だった。
誰一人、家に本もない環境の仲間が大半の中では、当然と言えば当然だった。

私の母は、幼い頃からの文学少女で、家には数えきれないぐらいの本が所狭しと積み上げてあった。
また、母は知的な美しい世界に憧れ、子供達にも自分の夢を託していたように思う。
芸術に憧れクラッシック音楽や、美術への造詣も深く、母も油絵や生け花に精を出しながら、自分の美の世界に傾倒する浮世離れした感覚の人だった。
兄弟姉妹の四人とも、ピアノレッスンに励まされ、私に至っては絵画まで習わす熱心さであった。
実際に姉の二人は、クラッシック音楽の世界に進み、音楽大学のピアノ科に進学した。
クラスの誰一人もピアノなんて触ったこともない状況で、私のピアノレッスンは周囲には極秘にしていたが、結局仲間への遠慮からピアノを断念した事は、今思えば後悔といえる。
読書家の母に感謝しきれないのが、私を読書の素晴らしい世界に、幼い頃から導いてくれたことだ。
日が出ている間は外で遊びまわり、日が落ちてからは読書三昧の時間を過ごした。お気に入りの本は繰り返し何度も読みふけった。
母は毎週近所の古本屋に行っては、付いていく私に、こと本に関しては自由に買って与えてくれた。
純文学、冒険物、推理小説からあらゆる図鑑まで、ジャンルを問わず私の本棚には別世界が広がり、何度も何度も本の想像の世界に没頭することができた。
特に感化されたのは所謂偉人伝で、古今東西の偉人の人生に自分の理想を重ねて憧れたものだ。
特にシュバイツァー博士や、野口英世や、湯川秀樹など、子供心に偉人の勇気や発想や不屈の努力に大いに感化され、また自分もそのようになれると心酔したものだ。
漠然と医者や研究者への憧れが芽生え、将来の夢へと重ねていく自分があった。

◆大転換の中学時代

毎日が楽園の中で過ごしてきた小学時代だったが、中等部への進学を前に、兄弟のように過ごしてきた仲間との別れが突然来るとは想像もしていなかった。
身体も大きくリーダー格だった私は、担任先生の親への進言で、中等部に進級せずに、地域の中学校への進学を勧められた。
理由はいたってシンプルで、このまま進学すれば、『井の中の蛙大海を知らず』で中途半端な不良に成り兼ねず、持ち合わせている能力やリーダー気質が勿体ない、との理由だった。
幸いに、住んでいる地域が越境入学が絶えない市内有数の文教地区でもあるし、彼はアタマもバカではないので、そこで揉まれる方が将来に必ず繋がると…担任先生が力説した様だった。
両親も、普通なら中等部進学が前提なのに、敢えて地域の進学校に転身させて将来に繋げろ、って説得させられては断る理由がなく、寧ろ出来れば進学熱の高い地域で、我が子がどの程度の可能性を見出すのか、懸けてみたい気持ちもあったので、話はとんとん拍子に進んだ。
私も親同然に期待を寄せる担任先生を悲しませる訳にもいかず、私の船は未だ見ぬ大海へと大きく舵を切ることになった。
担任先生の希望と両親の意向の一致もあって、私は本名で通学することになった。
地域の中学ではその前例がなかったようで、後にも先にも第二番目は私の弟であった。

仲間と別れる小学校最後の卒業式は、胸が張り裂けそうで泣くまいと我慢していたのに、もう会えないと、仲間が次々と泣くものだから、最後はぐちゃぐちゃになって皆で泣いた記憶が蘇る。
自分だけが別世界の大海向けて、独りぼっちの航海に出る気持ちになっていた。
そして、地域の中学校での入学式で、遂に私は出航する日を迎えた。
地域の中学デビューは散々だった。
まず、私の目立ち方が異常な事と、身を守る敵愾心も手伝って、周囲を寄せ付けない雰囲気が充満していたようで、心許せる友達が全く出来なかった。
ガタイも大きく、おまけに、初めて接する耳慣れぬ私の名前に興味本位で近寄る者には、ことごとく喧嘩して粉砕するものだから、半年間は誰も恐れて全く近寄らなくなった。

だが、その転機は最初の夏休みに訪れた。
同じクラスのリーダー格の級友が、他の不良グループに因縁をつけられていた現場に、たまたま遭遇した時のことだった。
あろうことか、何とその不良グループはかつての小学時代の仲間だったのだ。
私の鶴の一声で、無事に難を逃れた級友とは、それを機に急接近して、心を解放するように仲良くなっていった。
その後、周囲とも心を開き、どんどん仲間ができていったのだ。
その時気付いたのが、まさに『井の中の蛙大海を知らず』の意味だ。
仮にも小学時代は勉強に自信があったはずなのに、超進学熱心な地区の日本の学校では話にならない程の学力格差を感じ、私のプライドはズタズタに砕け、気を晴らすかのように喧嘩に明け暮れていた矢先に遭遇したのだった。
その時、殻にこもり自分勝手に心を閉ざして腐っていた状況と、無力な自分が客観的に見えたのだ。
久しぶりに再会した旧知の仲間の卑屈な態度と、余りにも情けない野蛮な振る舞いに呆れ返って、その姿が何ら自分と変わらず重なって自覚した出来事だった。
差別される根幹は、卑屈な根性を持つからだ、と確信した瞬間でもあった。
残念ながら、旧知の仲間はそれさえも気付かずに、旧態依然とした日常に埋没していて、そんな旧友の情けない姿を、自分と重ね見て悲しくなった。
その一件以来、私の中学生活は冬眠から目覚めたように、本来の素直さと明るさを取り戻し、新天地で活発に動き出した。
楽しく学校生活を過ごす中で、最初は嫌だった本名での通学も、寧ろ超目立って便利だなと感じるぐらい、日本の学校に溶け込んでいった。
なにしろ、一学年400名近くの三学年の1200名と全先生が、私の存在を知っていて、本名のお陰で目立つ事は抜群に際立っていた。そして名札を隠す事は以後無くなった。

◆恩師との出逢い

以前に私は、名前が持つ意味の重要性に言及し、また在日にとっての名前は、出逢いの[踏み絵]であり、かつ自身の[浄化フィルター]の要素があると述べた。
その認識は中学での環境に培われたのかも知れない。本名で通学することにより、色んな人と出逢う最初から、在日である説明をする必要が無かった。
それはある意味、相手に在日を前提とした認識を持って貰えるので、わざわざこちらから在日の説明が不要になる便利さがあった。
中には、韓国に対して固定概念や嫌悪感を持つ人もいたが、そんな人は、私を避けるか、近寄らないかが大半だった。
実際、親から私と遊ぶことを禁じられていた仲間もいたので、私は彼の家に招いて貰えず、私が招くばかりで、それを苦に、仲間が事情を吐露したこともあった。
子供心に大人の事情には傷ついたが、仲間に非は無く隠れて付き合うものだから、彼自身も可哀そうな立場と察することができた。
ただ逆に、どう見られているのかという自意識はこれまで以上に敏感に感じたので、自身の振る舞いには特別に注意し意識もした。

私の中学時代に出会った恩師は二人いる。
一人は日本の地区の中学校の先生で、もう一人は在日の科学者だった。
振り返れば、この二人の先生のお陰で、私が教育関係に携われることができたと言っても過言ではない。
私の言動の全ては、韓国フィルターで見られるので、まさに国を背負っていた気分で『どーせ〜』と言われぬように『さすが〜』を目指して日々持てるパワーを全開に、全力で通学していた。
そんな中で、学校の先生も私の扱いは、二極化していたように思える。私の心の中にぐいぐい入る先生と、明らかに遠慮する先生のいずれかだ…。

[次号につづく]

※出航早々に座礁し中学で落ちこぼれ腐っていた私が、再び夢大陸を探そうと舵を切る契機になった恩師との出逢いや影響に関して次回は振り返りたい。大人の一言で子供は変わるのだ…

おしらせと今月の予定

※入試100日前カウントダウン開始です!!
いよいよ大学入試共通テスト/中学入試のカウントダウンが開始します。
コロナ感染に気を付け計画的に受験学習に集中しよう!

※10月よりアドバンス講座/基礎充実講座が始まります
【希望者のみ/受講適格者のみ】

※進学相談随時受け付けます![予約必要]
志望校選定を確固たるものにしましょう!

今月の予定
●1日(土)休講日
年間調整日の為
○29日(土)全国テスト 小学生/中学生
※外部生のテスト受験も可能です。志望校判定等
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