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アペックス便り9月号

◆前回のつづき …両親の戦後…
〜マイノリティーとしての私の誕生〜

父は済州島で生を受け、併合下の戦前から日本と済州島を祖父母と行き来しながら、日々を懸命に生きていた。日本の学生として出兵の[赤紙]を貰ったその年に終戦を迎え、父は奇跡的に死を免れて解放された。済州島の動乱と、朝鮮戦争の勃発により、家族を守るために直ぐの帰国は諦め、まずは経済的安定を優先させて日本に留まった。父の無念は、父が尊敬して止まない実質の育ての親ともいうべき、私の曾祖父[故郷の村の里長をしていたが、済州島四・三事件で村を代表して処刑された…]の墓参りに、再び故郷の土を踏むことなく日本で他界した祖父を、終戦後も故郷に連れて帰る機会を得ず、日本の土に埋葬せざるを得ない結果になったことだ。

二十歳で結婚し、一家を支える父に、朝鮮戦争で焦土化した祖国が、分断国家として停戦を迎えて、在日一世として日本に留まりながら懸命に家族を守り生計を営むなかで、帰国の時期を逸した理由は、祖国が分断されたことと、日本の戦後復興のスピードがあまりに急展開で経済復興したのも一因に挙げられる。当時の在日社会は、分断された祖国の傀儡政権のいずれかに属する必要が有り、故郷は韓国の済州島だったが、済州島動乱によって無念の死を遂げた曾祖父の一件もあって、父は総連に属する判断をすることになった。後にこの判断が、朝鮮籍になった故に、日本との断交から40年近くも韓国の故郷への里帰りを遮断する運命になった理由である。
加えて、父が貧困から脱却する野心と計画に、焦土化した祖国よりも日本での生活基盤の確立の方がその先にある父の夢に繋がると、先見の明を働かせたのも里帰りを遮断させた一因になったのは否めない。生きる為の自然の成り行きで、当時の在日社会では珍しくなく、大家族を支える父にすれば当然だった。

身体も大きく[185センチ、90キロ]、実直で統率力もあった父は、螺子、ボルトを製造する数人の町工場の工場長として仕事を任され、大きな信頼を得て意欲的に働いた。お世話になった老社長の下で懸命に生きていたが、跡目のない老社長が廃業する前に経営権を譲り受け、工場を買い取り青年社長として再出発したのが25歳ごろと聞いていた。長男を亡くした後に、長女、次女と恵まれ、何とか安定的な経済力を得るためのチャンスとばかりに、父は全財産を叩いて人生を賭ける勝負をしたのだ。
父の予感通りに、日本の経済復興は猛スピードで駆け上がり、鉄鋼関連の製造業の部品供給の位置づけだった父の業界も例に漏れず、作れば作るだけ売れたようで、機械化されていなかった職人の時代だった故、従業員数に比例して生産量は上がり、やがて30人ばかりの職人さんを抱えるぐらいに成長して、青年社長の勢いは日本の経済復興の流れにもしっかりと乗ったようだった。一家が安定し始めた頃に、次女に続いて私が誕生するのだが、物心ついた幼児期の生家の記憶は今でも鮮明に覚えている。

大阪の東成区の近鉄鶴橋から疎開道路を超えて、今里ロータリーまでの[大成通り]で私は産声を上げた。長男を亡くして三人目で待望の男の子ということもあって、父を筆頭に祖父母の喜び様は大変だったようだ。当時の韓国社会は伝統的な儒教精神を引き継ぐ男系社会で、長男が家督を継承するのが常識的に位置づけられており、私自身は祖先から数えると、何とその継承を引き継ぐ67代目になるのだ。
実際に韓国社会のどの家庭も祖先の系譜[世譜、族譜、チョッポ]という記録を持ち、私の始祖は【密城朴氏】で、出身地域から脈々と私の67代まで、記録伝承されている。

更に父が済州島に入島して16代目になるので、私は済州島を故郷に持つ17代目の家督者として記録されている。66代目の継承した父の前には在日の記録は無く、父は在日1世として渡来し、私が在日2世として、祖国を朝鮮半島に、故郷を大阪と済州島に持つマイノリティーとして、日本で誕生した[宿命]を背負ったのだ。私の在日感情は、両親の宿命の継承の上に成立するので、私の[宿命]の核をなすアイデンティティーは、韓国社会と日本社会のダブルの感情で構成され、ダブルスタンダードを生まれながらに持ち得た私は、幸運で良かったと自負している。韓国での当たり前が、日本ではマイノリティーとして位置づけられる在日の存在は、在日自身の生き方と考え方次第で大きく変わるからだ。
生みの親の[祖国]の顔を知らず、育ての親の[日本]への感謝は当然ながら、生みの親を知りたいという感情に駆られる衝動にも近い複雑な想いを、日韓の二国を重ねてダブルに祖国を持てる在日として生きることで、自分の[運命]をマネジメントする為には、やはり『超ラッキー』と、マイノリティーとしての自覚と覚悟を鮮明にして生きる方が自然だからだ。

在日二世として生まれ、幼年期から青年期へと成長する過程で、韓国社会からも日本社会からも浮いた存在を地につけるのは、自分自身で足をしっかり地につけるしか術はなく、両足があるならそれぞれの足を両国に下ろすことができる[ダブルの幸運]と捉えて生きていくのが賢明だろう。しかし、もの心がつき成長する過程で、この[宿命]を絶対肯定しながら全てを甘受する覚悟ができるまでは、理不尽な体験や不条理な世界を垣間見ながら、相当な時間と紆余曲折が有り、決して平坦な道ではなかった。私の[宿命]のバトンは、[運命]の運び方次第で変わっていくのだ。更に在日一世たちの苦労や悲哀を思えば、その運び方に責務も生じるので、自分勝手な無責任なマネジメントだけは絶対に避けたい思いもある。

次に、幼少期からの記憶や原体験をもとに、思春期までの成長過程を振り返りながら、忘却の彼方に埋没し兼ねない自身のアイデンティティーの欠片を探っていきたいと思う。

◆強くなければ生きていけない…

在日二世として産声をあげた私は、両親と家族の愛情に支えられすくすくと育った。在日という韓国社会での成長は、自然と多極的な見方を育んだように思える。周囲との違和感を生活の中で垣間見るときに、感じた疑問を幼児期はまず親にぶつけるものだ。この時に親の対処の如何が後の価値観の礎にも成り兼ねないので、どの親も幼児期に直面する我が子の質問には、熟慮が必要だ。幸いにして、私の両親は[人間としての倫理観]を最優先に真摯に生きてきたので、ダイレクトな親の言動には、その都度自分なりの[納得解]に至ったように思える。それは、すぐに納得できた解もあれば、とてつもなく時間を要した解もある。小学校に上がるまで東成の大成通りのボロ長屋に、祖父母と両親、兄弟4人が所狭しと、ひしめきながら暮らした記憶は、懐かしく又鮮明だ。工場の事務所も兼ねた長屋だった故に、幼いころから仕事に追われる父とも毎日顔を突き合わせる。やんちゃ盛りの私は、常に父に叱られる役目だった。長男への躾は他の兄弟姉妹と差別的と思われるぐらい徹底していたので、その腹癒せで、よく陰で弟に八つ当たりしたものだ。祖母は日本語もたどたどしく、半分韓国語交じりで話すので、韓国語特有のアクセントや発音は自然と耳慣れてくる。日本語の濁音が苦手な発音形態から、韓国人特有の日本語発音の祖母と共に行動する時は、子供心ながら恥ずかしく感じてしまい、祖母を責めたことは今なお心残りである。生まれた時から日本語しか話さず、全てを日本語で思考発想する二世の私は、母国語は日本語である。言語の持つアイデンティティーは、絶大だから母国語で育む私の感性は、日本語で磨かれたことと言える。
要は、ヒトは大地で生まれ、大地に根ざすのが自然の成り行きだから、私の故郷は日本である。世界の至る所でマイノリティーは存在するが、基本的に生まれた国の言語を母国語として思考する延長上での国籍が、本来ならば一番自然体になれるだろう。理想を言えば、民族性の尊厳も加味した異文化をも認め合う社会は、多様性と弾力のある豊かな社会を構成し得ると思える。

単一に同化を求める社会は、原理主義の危うさに繋がる恐れもあるかも知れない。例えば、人種のるつぼであるアメリカ社会での、〜系アメリカ人というのは、先祖が明確で分かりやすい自然な形態だと思う。旅好きな私は、これまで幾度となくアメリカ大陸を周遊してきたが、一番驚いたのは、どう見てもアジア人の私に、現地のアメリカ人から道を尋ねられることだった。島国の日本で育った私には驚きで、外国人とアメリカ人との区別がつかないぐらいにアメリカ社会は人種間が多様でるつぼ化され、共生している社会を実感した。もちろん、中華街やイタリア街や韓国街、ロシア街、黒人街、スパニッシュ街などと、地域社会が住み分けされた街も点在し、各々のマイノリティーが共存するのだが、皆、アメリカ人としての国家への忠誠を最低限のルールとして繋がっている移民国家社会を実感した。皮膚の色から、容姿から、明らかに他民族と分かりながらも、根底のアメリカ人としてのアイデンティティーを共有している感じだ。日系アメリカ人、韓国系アメリカ人、アフリカ系アメリカ人、イタリア系アメリカ人、といった人種構成も地域や州によってまちまちで、スパニッシュ系が大半な地域では、英語さえ通じない地域もあったぐらいだ。しかし、ここ日本では厄介なことに、容姿や外観からは区別がつきにくい民族的な差異を、共通言語の日本語を話す限り認識しにくい現実と直面しなければならなかった。

例えば、民族差別感情なども日本ではどうしても陰湿になり、島国特有の単一民族の意識からか、異分子への受け入れ感情が複雑かつ閉鎖的で、日本への同調圧力が強い環境もあって、特に韓国系、朝鮮系の在日社会では、俗に呼称する[通称名]を大半使用しながら、日本社会に根付く在日も多い現実がある。在日自身の被差別意識から通称名に身を隠さざるを得ない、悲しい差別体験が根底に身に染みている一世たちの苦労の処世の所以であろう。今日の若い世代には韓流ブームも手伝って、陰湿な差別感情もさほど感じられない時代になったことを、一世たちが見たら驚くだろう。
更に、一世から二世、三世と世代が進み、帰化する在日も増えている現在は、自分が半島のルーツを持つ民族性すら知らない在日の子供たちがいるくらいだ。日本人であれ、韓国人であれ、何の国籍であれ、国籍なんて紙切れ一枚の縛りに過ぎず、大切なのは自分のルーツを紡いできた民族性なり文化の継承を、誇りをもって生きることだ。
大和言葉を大切にせずに日本文化に触れることは不可能だろう。

同様に、何世代も継承記録された先祖の姓を名乗れない韓国人が、韓国文化を触れることには無理があろう。では、ややもすれば日本への造詣が深い日本人にも成れていない在日は、一体どこに自分の拠り所を求めて、生きていけば良いのだろう。
日本社会での名前の持つ意味を深く考えさせられることがある。名前は、在日マイノリティーとしてのアイデンティティーを保持する最低限の証であることに、私は幼いころから意識せざるを得なかった。周囲は、私が[通称名]を使う限り、私の存在の根深いところまで意識しない[日本人]として扱い、私も韓国や朝鮮を封印せざるを得ないことに不自然極まりない感情に抑圧されて、何とも居心地の悪い精神状態になるのだ。それはやはり、苦労して生き延びてきた祖父母や両親から受け継いだものを誇りに、また拠り所として生きているからだと思う。被差別意識で[通称名]を使いながら、狭い、限られた小さな在日社会から、日本社会に不平不満を並べるぐらいなら、外観から見分けが付きにくい在日韓国人としての証としての[名前]を大切に生きるしか、方法が無いではないか。しかも、それが一番自然なことなのに、在日自身が名前を使い分けている不自然さに違和感を持ちながら、中途半端な生き方しかできないとも思う。
そして実際に、表裏なく生身の私自身をさらけ出すのに、名前の持つ背景からアイデンティティーそのものを受け入れて出逢った素晴らしい人々や経験が、日本社会の素晴らしい側面を再認識できるのだから、在日にとっての名前は、出逢いの[踏み絵]であり、かつ自身の[浄化フィルター]の要素があると思う。この確信に至るまでの経験や出逢いは、必要条件が有るような気がする。それは【強さ】だ。自身への生きる為に備えなければならない圧倒的な強さだ。

自分自身の全てを生身で表現し、勝負する前に、周囲からはバイアスを掛けてみられる先入観や固定概念という壁を取り除いて、はじめて同じ土俵に上がれることを幾度となく経験してきた。幼いころから私個人の前に、意識の如何にかかわらず、それこそ私の一挙手一投足は、韓国人の〜、なんてレッテルで常に見られるので、韓国を背負っている勢いで行動をせざるを得なかったのは、内にある【強さ】への問答と葛藤の連続であった。〜のくせに、〜だから、のような先入観を取り除き、初めて私自身の個性と感性で勝負する生身の等身大の声が周囲に届くことを知ったのは、特に中学校を進級するにあたり、在日社会から切り離されたどっぷりの日本社会に飛び込んでからが顕著だった。

次回は…多感な小〜中学時代、出逢いと運命の変化…につづく】

※いかなる人間も生を奇跡的に受け、全うするまでに意味を持ちドラマがある。死を強く意識させられた我が身の病気は、30年近く教育の一端を担ってきた私塾に懸ける夢を、自身の宿命から根底にあった事に、大きく気付かされた気がする。 教育の可能性を信じながら、次世代に繋ぐ責務を探っていきたい…。

おしらせと今月の予定

※コロナ感染推移の高止まりに注意!
コロナ感染が新学期を節目に増加予想され、特に低年齢層の増加が顕著です。予防意識の低下と感染予防の履行が不十分なので、再度意識を高め、感染予防を徹底させましょう。自宅療養等の授業欠席を強いられるのは、大きな損失になりますので気を付けましょう。

今月の予定
○9月3日…全国テスト
※小6&中3受験生のみ
●9/30,10/1は全休講日
※年間調整日の為

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