前回は、壮大な人生ドラマに必要不可欠な要素に[宿命][運命][天命][使命]の[命]のマネジメントを考察してみた。自分らしい生き様を模索しながら、自分らしく輝ける[天命]まで昇華できれば、最高の壮大な人生ドラマと言っても過言でないだろう。その実現の為に夢を絶対に諦めない『一度きりの旅』とも称した。人生は、誰もが周知の事実として[一度きり]で生きている。時代や環境や背景は異なれども、奇跡の連続の[生命の伝承]を担って、この世に誕生したのは[何らかの意味]を模索し[何らかの役目]を感じて、壮大な人生ドラマの主役を演じるのが本来の意義であろう。
この世に一切の無意味が無いのと同様に、誰一人としてこの世に無意味な人生なんて存在しない。ただし、自分が主体となって人生ドラマの主役を演じるのと、他者に翻弄されて彷徨うばかりの人生ドラマには、天地の開きがある様に思う。特に、『一度きりの旅』を『夢大陸発見のための大航海』と重ねて歩んできた私の場合、『宿命』の甘受は、前に一歩踏みだす為の必要条件だったと思う。抗うことのできない『宿命』を絶対肯定して、一切を自分の中に受け入れることは、大海原を前に筏レベルの船体でも、島々を転々と辛うじて辿り着きながらも、船体の補強と改造を重ねながら、来るべく大洋に繰り出すための準備と、その決意の地固めと並行に、まだ見ぬ夢大陸への想いを馳せながら、出航の瞬間を伺っていた少年時代があった。そして、私の出航に絶対不可欠なものが、圧倒的な『強さ』を身に付ける事と、行動の全てを自己責任遂行する『覚悟』の二点であった。その為の『生きる力』と『洞察』と『知恵』は幼児期から少年時代へと成長の過程で否応なしに鍛えられていった。
環境と時代背景と受け継いだD N A がその原点となり、出生から物心がつく幼年期を経て、中学生を終える思春期あたりで感じ得た体験や、諸々の『宿命』を絶対肯定し且つ甘受するなかで培ったものばかりであった。昔の人は良く言ったもので、なるほど『三つ子の魂百まで』のように、幼児期の環境や親の価値観を包括した原体験は、身体の一部として血肉となり後の成長の礎にもなり、計り知れない程の糧となる。善悪に関わらず糧となるから、今まで親業を経験し、孫にも囲まれる祖父業も楽しませて貰えているこの頃では、ますます幼児期の発育環境の重要性は、身に染みて感じるばかりだ。私自身は我が子二人の実子を育てる前に、誕生する以前から確固たるイメージがあり、実際の子育て時代にはイメージ通りの信念を貫き、また色んな紆余曲折はあっても、子供たち自身にも期待に副うような成長に恵まれ、子供を中心に家族との日々は、毎日が楽しく変化に富む珠玉の時間を過ごせた自負がある。子育てと言ってもとてもシンプルで折り目、節目に応じて、『直球で勝負せよ』と『自分で考えろ』と『人の二倍できて普通』を徹底させただけで、自身も翻弄せず、子供たちを迷わせず、子供たちのあるべき方向性への[導き]だけは怠らなかった。
どの親も子供の将来に対しては不安なり持つものだが、子供は生まれた最初から[別人格]だが、[D N A を共有]する[生命]としての属性も兼ね備えているので、客観的な距離感を保つことが難しい。だが、程よい距離感を維持しながら、時には血と肉を交えるぐらいの過剰な溺愛で包むことで、微妙で絶妙な[さじ加減]をバランス良く保ちながら、子供の成長と共に交流にも長けてきたように思う。まあ、気合を入れて子供たちと真剣に毎日を過ごし、日々の成長を楽しみながら過ごしてきた、といった処だろう。ところが一転、やはり孫に至っては、傍観的な立場もあり、また孫たちに嫌われない為の努力に傾倒するあまり、決して子育てには良くない(我が子には絶対しなかった)事も、ついついやってしまう甘やかしが有り、可愛がるだけで良い(無責任)な愛情で包むので、年に数回会えるかどうかの物理的に離れて暮らす現況の方が、孫の成長にはきっと良いのだろう。
話が子育てに脱線しそうなので、後に我が子、わが孫の誕生は、私の夢大陸の重要な部分を構成しているので、また改めて後述することにして、自身の『宿命』の絶対肯定から甘受する幼年期から思春期、そして青年期までの時代を振り返ってみたい。その為には、私の両親の[宿命]から振り返らない訳にはいけないので、生前の両親と交わした回想と、彼らの歩みの背中を見続けてきた記憶を頼りに、命の伝承のバトンを次世代に繋いでいきたいと思う。
◆マイノリティーとして生まれたのが幸運…育んだ感性と生きる力…そして出逢い
私は、朝鮮半島から渡来してきた在日一世の両親のもとに大阪で誕生した。戦前から渡来した両親は、大変な苦労をしながら戦火を生き抜き、戦後焼野原の何もない中で若くして結婚し、五人の子供(長男は生後すぐに死亡)を設け、四人を育て上げた昭和一桁の筋金入りの苦労人だった。両親が日本に渡来した経緯は、まさに時代に翻弄された宿命を、個人の力では何とも出来ない背景を背負って渡来したと言える。
朝鮮半島からの渡来と言ったが、日韓併合されていた当時、実質、李氏朝鮮という国家は消滅し、朝鮮半島は天皇直属の管轄で皇民として併合し、領土化がされ、実質(植民地)として日本政府の支配下にあり、大韓民国、朝鮮民主主義人民共和国という国家さえ生まれてなかった時代であった。
皇民化政策の中、朝鮮半島の人々は、日本名(創氏改名)を名乗らされ、日本の学制を導入して、日本語を強要された環境にあった。半島の宿命なのか、歴史上、地続きの中国に翻弄された時代が長く 、李氏朝鮮も実質は(千年属国)という有難く無い中国との地政学的な緊張に加え、列強の大陸進出の焦りに南下政策を露わにしてきたロシアに挟まれた極東の緊張は混乱を極め、日清戦争の勝利を経て、三国干渉の不満に溢れる日本の国民感情の矛先が対ロシアに向かう最中に、当時の政府は『朝鮮半島は中国、ロシアから日本が守り、皇民化の後に日朝合わせての国力強化』を狙って、列強に対抗する大陸進出の足掛かりにする道程であった。日本の近代化に多大な影響を与えた福沢諭吉が、当時の半島の無政府ぶりと李氏朝鮮の旧態依然とした階層封建的な停滞しきった社会を見兼ねて『脱亜論』を著し、大きく日本の未来を西洋に対等、対抗すべく舵取りを切った影響も、その後の極東の運命を揺さぶる結果に繋がっていく。結果、日本は日露戦争の開戦の後に、1910年に韓国を併合し、実質1945年のポツダム宣言後の全面降伏した後まで暫く、実質35年に及ぶ日本の植民地支配が続いたことになる。
言葉のニュアンスが本当に大切なのは、こう言った史実の中に埋もれてしまう暗黙の国民感情だ。併合に至る調印では、当時の日韓二国間は、対等な主権国家としての条約と記録されているので、日本政府はあくまで(植民地)という言葉を避けて対韓感情に神経を使ったようだが、数々の公文書レベルで(植民地)という言葉が記述されているのが実際で、今日でも韓国の国民感情を無視した質問をマスコミもするのだから、歴史の伝承は本当に大切だ。
要は、同様に日本に併合された当時の台湾や樺太と比べ、特に台湾は併合された日本に親日なのに韓国はなぜ反日なのか、という質問がある例だが、仮にも対等の条約締結に、主権国家としての立場を表面上に留め、内心、蔑む感情とも取られないのが[植民地]という言葉なのだ。台湾と違って、当時の天皇直轄支配が韓国で、だから皇民化の一環で半島の人々はすべて日本人だから、私の両親も歴史上は祖国が日本に併合された(日本人)として誕生していることになる。ちなみに台湾は主権国家でない故、内閣直轄で併合支配されたので、日本のインフラ整備などの投資や開発に対して、台湾の国民としての感情は親日に直結した説が素直な見方だろう。話は飛躍するが、プーチンが帝政ロシアの復活を夢見て、西側寄りに傾斜していく兄弟国のウクライナを一方的に軍事侵攻したのを、あくまで戦争と言わずに、親ロシア派の救済と N A T O の脅威を排除するための紛争に留め、無差別に民間攻撃を続ける姿勢に、ウクライナの国民感情を蔑ろにするロシアの態度や、ウクライナを主権国家と見做していない一端が、ウクライナの国民感情に遺恨を残すことと差ほど変わらないとも思えるぐらい、外交も感情一つで大きく転換するのが、歴史の暗黙の国民感情だ。
誤解の無いように言っておくが、私がここで政治的意見やイデオロギーを語る気持ちなんて毛頭持たず、歴史はその立場により編集されるのが常であり、国益最優先で動いた相互の結果に、国民は常に翻弄されるという事実を言っているまでだ。
実際、両親は歴史上では日本人として扱われ、半島と日本は自由に行き来できたので、仕事を探して生きる為に日本に渡来した韓国人も当時は大勢いた。さらに複雑なのが、韓国と言っても、両親は済州島の生まれだから、また韓国本土との数奇な歴史(済州島四・ 三事件)に翻弄された壮絶な運命を辿ることにもなっていく。 今でこそ韓流ブームもあって東洋のハワイなんてリゾート化して、済州島は日本からも大挙押し寄せていくメジャーな観光地で有名になったが、昔から韓国王朝での政治犯や、失脚した果てに流された流刑地の歴史を持つ島の悲劇は、太平洋戦争が終わっても続く。
日本から解放された朝鮮半島の38度線を境界線に、米ソが後ろ盾になって後押しする傀儡政権が、特に中国、ソビエトによる半島の共産化を嫌った李承晩の傀儡政府とアメリカのアカ狩りに、何の罪もない民衆が、本国とアメリカの犠牲になって島民の約1割が虐殺された悲劇が、韓国内での本土と島の微妙な感情のねじれを更に根の深いものに浸透させていく環境にあった。最悪なのは、アメリカ軍政が、日本統治に協力した(親日派)や右翼勢力を利用して、全国的に左翼勢力を取り締まったアカ狩りの呼び水になって、済州島四・ 三事件は、島民が本土の韓国人に虐殺される悲劇を生んだために、終戦後に日本から解放されて韓国に帰った人々も大半だったが、在日済州島出身者は島が動乱の最中の為、帰るに帰れず、むしろ事件後は難を逃れるかのように島を捨て日本に渡った人も少なくなかった。ウクライナから避難民が周辺の国外に逃れるように、当時の済州島の人々は在日朝鮮人として同胞を頼って来日し、大阪市にコリアタウンを形成し今日に至る経緯があるので、大阪市には済州島出身者が多く、今日でも在日社会が点在する理由には済州島の負の歴史がある故だ。
両親の生きた時代は、抗うどころか、常に明日はどうなるか分からない生きる事さえ困難な時代に、生まれた時からアイデンティティーの封印を強いられ、祖国と異国の狭間で、希望と絶望の山野を駆け巡っていた時代の宿命を背負わされていたのである。更に若く結婚した両親は、長男を亡くした失意の中でも懸命に生き抜き、長女の誕生で希望を見出すのだが、米ソの緊張が一気に崩れた1950年に、北の傀儡政権のパルチザン出身の金日成の38度線を越えての武力侵攻による朝鮮戦争が勃発することにより、両親の故郷の済州島への一家帰国の道は完全に途絶えてしまうのである。今日でも極東の緊張の火種になっている朝鮮戦争は、米ソの覇権争いの表舞台とな り、戦火は激しさを増すばかりで、皮肉にも戦後焼野原に焦土化した日本に、特需景気を齎し、奇跡の復興の足掛かりを日本は得て、朝鮮戦争の翌年日本はサンフランシスコ講和条約の調印を果たし、戦後の終結を連合国諸国に認められ国権が復活するのである。要は、両親の運命の糸は、日本から解放された朝鮮半島が新たに米ソの覇権争いの主戦場と化し、長引く戦火で焦土化するにつれ、日本は戦後復興の足掛かりを得ていく皮肉な時代の転換期に、済州島出身者の両親は戦後に帰国の道を途絶えられた済州島の動乱を契機に、その後在日一世として日本に根を下ろすことになり、父が再び故郷の土を踏むのに、実に40年の歳月を要したのだった…
※ヒトは何処からきて何処へ向かうのか?悠久の歴史の中で、延々と繰り返し命のバトンを繋いできた。遥か狩猟 の時代から、家族を形成し、やがて民族を束ね、更に固有の文化を育んできた。自然の脅威と融合しながら、各 地に土着し生きる知恵を伝承しながら、この先も [奇跡の命]をバトンしていく 。ヒトのアタマで作った国家の栄枯盛 衰は歴史の大河に浮いては沈みを繰り返し、留まる事を知らない。何処で生まれ、何処で生きていく のに、自分の ルーツや精神的な拠り所やアイデンティティは、出来る限り大切にしたい。異文化に触れる感動と、交える喜び は、何事にも変えられない、珠玉の瞬間だと思うから。そんな出逢いが、バトンに託されているのかも知れない…。
【次回につづく】
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今月の予定
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●11日〜17日…夏季休暇
★全講座クラス休講
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